Bon appetit !      鷹宮 椿

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 あの日から、剣心はなんとなくぼんやりするようになった。
 製作の途中、左之助に声をかけられて初めて手が止まっている事に気づくような有様だ。
 12月に入って気温もぐっと下がってきたある日、朝になっても剣心が起きてこないのに心配した左之助が部屋をのぞいてみると、剣心は真っ青な顔をしてベッドの中で震えていた。
「剣心!大丈夫か」
 慌てて額に手をあてると、燃えるように熱い。
「・・・ごめ・・ん、さの・・・。もう起きるか・・ら」
「バカ野郎、すげぇ熱だぞ。おとなしく寝てろ」
 左之助は慌てて部屋を飛び出す。
「くそっ・・・!」
 そういえば昨日は食欲もなく、少しだるそうにしていたのだ。気づいてやれなかった自分に、左之助は毒づいた。
 近所の医者に往診してもらった結果急性扁桃腺炎だと診断され、安静を言い渡される。とりあえず病名が判明してほっとしたが、ほとんど病気らしい病気をしたことがない左之助には40度近い高熱など想像もつかない。苦しむ剣心が痛々しくて、なぜ自分が代わってやれぬのかと歯噛みした。
「剣心、だいじょうぶだからな。しばらく寝てたらよくなるって。俺がずっとついてるから。店も3日間休みにしたから、安心して寝てろ」
「・・・さの、学校は?バイトも・・・」
「病人がつまんねーこと気にすんな。ほら、ポカリ飲め」
「ん・・・」
 背を抱いて少し起こし、水分を取らせる。左之助の手の上に乗せられる剣心の手は小さく、熱かった。喉が痛んで水さえ飲み下すのに苦労している剣心が可哀想で、胸が締め付けられる。
「後で果物買ってきてやるからな。何がいい?メロンか?」
 頬をピンク色に染めて浅い呼吸を繰り返していた剣心は、熱で潤んだ瞳を開けて小さく微笑みながら、
「じゃあ・・・いちご。」
 と甘えるように言った。
 口をぽかんと開けて黙ってしまった左之助に、剣心は首を傾げる。
「さの・・・?」
「・・・お、おう、わかった!いちごだなっ!い、今すぐ買ってきてやる!待ってろ!」
「あ・・・」
 剣心は引きとめようと手を伸ばすが、左之助は何故かあたふたと出て行ってしまった。
「別に、今じゃなくてもいいのに・・・。」
 もう少し側にいて欲しかった剣心は少し唇を尖らすが、薬が効いてきたのかとろとろと眠けがやってくる。
 左之助が置いてくれた保冷まくらに、額に貼ってくれた冷却シート。部屋には加湿器の音が静かに響いている。着替えさせてくれたパジャマはさらさらと清潔なにおいがした。側に置いたペットボトルにはストローが差してあり、寝ていても飲みやすいようにしてくれている。手を伸ばせば届くところに必要と思われる何もかもが置かれ、そしてなぜか枕元には家中のぬいぐるみが並べられていた。
 剣心は、その中から以前銀座の三越でやっていたテディベアフェアで、左之助にそっくりだと言って買ったメリーソート社のパンキンヘッドを手に取る。
 メリーソートのベアはそのいたずらな顔から生意気、という意味の「チーキー」と呼ばれ、中でもパンキンヘッドはその名の通り頭のてっぺんにパンキッシュなモヘアの毛を生やせた特徴的な子だ。
 剣心はその柔らかいこげ茶の毛をなで、頬ずりする。
 ここ数日、色んな不安や昔の思い出が頭の中をぐるぐる回って、ゆっくり眠ることもできなかった。
 でも、今は。
 今だけは、何も考えないで左之助に甘えることを自分に許せる。
「さの・・・」
 小さくつぶやき、ぬいぐるみを抱きしめたまま剣心は眠りに落ちていった。

「や、やっべー・・・」
 左之助は駆け込んだ洗面所で勢いよく顔に水を浴びせ、ばしばしと自分の頬を両手で叩いた。
 先ほどの剣心の甘えた声と表情がまた瞼の裏で蘇って、左之助はひとり悶絶する。
 透き通るような肌の中で唯一桃色をした丸い頬、潤んだ大きな瞳、震える長い睫毛。小さな鼻は先が赤く染まっていた。少しかさついている唇をそっと舐めて濡らしてやりたいという欲求をこらえるのに、左之助は歯をくいしばらなければならないほどだ。
 パジャマからのぞいた鎖骨の窪みを舌でくすぐりたい。剣心の身体にある穴という穴全て、出っ張っているところもへこんでいるところも何もかもを舐めて、しゃぶって吸いつくしてしまいたい。
 思わずふとんを剥いで襲いかかりそうになり、左之助はあわてて剣心から離れたのだった。
「あーもう!剣心はあんなに辛がってるってぇのに!ケモノか俺は!」
 自己嫌悪のあまり頭を抱えるが、やがて気を取り直して立ち上がった。
「・・・とびっきり美味い苺、買ってきてやんなきゃな」
 今は苺の季節ではないが、千疋屋まで足を伸ばすつもりだった。今の左之助は、おそらくどんな無理難題であろうと剣心の望みならば叶えようとしただろう。
 その時、インターフォンの音が響いた。
「・・・誰だ?」
 モニターを見ると、そこに映っていたのは縁の姿だった。
「何の用だよ」
 無愛想な声で応答する。
『おまえか。剣心は?どうして店を休んでる。何かあったのか』
「おめーには関係ねぇだろ」
『関係?関係ならあるさ』
 縁はからかうような眼つきでカメラを見ている。
 左之助は舌打ちをひとつした。この男から訊きたい事は、実のところ山ほどあるのだ。
「入れよ」
 左之助はドアのロックを外した。

「扁桃腺炎?」
「ああ。今は眠ってる」
「・・・剣心が、呼んだのか」
「あ?」
「剣心が、お前を助けに呼んだのか」
 そうか、と左之助は唇の端をあげた。この男は、俺と剣心が一緒に暮らしている事を知らないのだ。
「ああ。今朝携帯にかかってきた。すっげーかわいい声で、助けて、ってな」
 その時初めて、左之助は縁の顔から一瞬余裕が消えたのを見た。
 しかし左之助がその変化をよく確かめる間もなく、縁はいつもの表情に戻っていた。
「医者は何て言ってる」
「熱は高いけど、しばらく安静にしてれば2,3日でよくなるってよ。今日は果物と水分以外絶食して、うがいさせて、とにかく休ませろってさ。」
「おまえは毎日側にいて、あいつが体調を崩してるのに気づかなかったのか」
 左之助はぐっとつまるが、一瞬の後反撃に転じる。
「剣心がおかしくなったのは、おめぇが剣心に無理矢理講師をさせてからなんだよ。あれからあいつぼんやりするようになって・・・。この病気だって、ストレスも原因だって医者言ってたぞ。てめぇ剣心に何しやがったんだよ」
「何もしやしないさ。ただちょっと昔を思い出させてやっただけだ」
「その、昔ってな何なんだよ。以前剣心に一体何があったんだ」
「本当に知りたいのか?」
「勿体ぶんじゃねぇ。話せよ」
 縁は冷蔵庫から勝手にライムのペリエを取り出すと、ソファに座った。
「聞いて後悔するなよ、ガキ」

 剣心と初めて出会った時、縁はまだ19歳だった。飛び級で大学に入学し、その時既に3回生だった。
 数年前に存在を知った腹違いの姉がパリに来ている事を父親から知らされ、それまでに数回会っていた。ただ姉と聞かされても、一緒に育ったわけでも接触があったわけでもなく、外見も似ていない彼女は縁にとって他人と変わらなかった。
 向こうからすれば、縁の母が父を奪った形であった為に縁に対して複雑な感情はあったかもしれない。ただ彼女の態度からはそういった感情は一切感じ取れなかった。まるで蝋人形みたいな女だな、というのが縁の姉に対する感想の全てだった。
 普通なら複雑な関係ゆえに疎遠になるものであろうが、互いに気にしなかったせいか時折会って食事するくらいの仲にはなっていた。内向的な性格の巴を心配した父親から時々会って様子を見るように言われてもいた。
 そしてある日待ち合わせしたカフェにつくと、巴の隣に鮮やかな赤毛に印象的な目をした小柄な人が座っていた。
 それが剣心だった。
 今考えれば一目で惹かれていたのだろうと思う。
 それまで一度も他人に対して恋愛感情を抱いたことのなかった縁は、自分が剣心に対して抱く感情に名前をつけるのに少し時間を要した。対象が女性でなかった事は全く気にならなかった。それまで女性と付き合った事は数回あったが、縁にとってそれはゲームであり、しかもあまりに容易ですぐに飽きた。
 自分以外の全てが愚かで取るに足りないものに思えていた人生の中で、初めて欲しいと思える対象に出会い、縁は心を躍らせた。
 姉の恋人だという意識はあまりなかった。なぜ剣心が巴のような面白みのない女と付き合っているのかわからなかったし、長続きするとも思えなかった。
 ただ自分の感情を自覚してからも、縁はあからさまな行動を何も起こさなかった。縁は既に巴の精神的な弱さに気づいていて、巴が自分の才能の限界に直面して作品製作に行き詰まりつつあり、遠からず自滅であろう事が手に取るようにわかっていたからだ。
 それまで縁自身がすることは何もない。全てが終わっていくのを側でただ黙って見ていればいいのだ。そして剣心の心がぺちゃんこに潰れてしまったところで出て行き、優しい言葉をかければそれでおしまいだ。
 果たして、現実は縁の想像通りに進んだ。
 ろくな才能もないくせに絵を描くことだけが全ての巴は、自分を追い詰めて苦しむ姿を見かねた剣心が彼女を絵から遠ざけようとした事に抵抗し、既に名声を得ていた剣心への反発も加わって二人の関係は静かに破綻していった。互いに感情をぶつけ合うような事はなかったが、その分余計にふたりはすれ違っていく結果になった。
 結婚を提案したのは縁だった。暖かい家庭を知らない巴にとって一番必要なのは家族なのだ、などと剣心を説得した。しかし実はそこには巴が壊れた時夫である剣心の責任を明確にさせる意図があった。そして義理とはいえ剣心と親族関係を持つ事で、自分とのつながりを確固たるものにする意図もあった。
 そして巴は剣心への当てつけのように拒食症に陥り、必死の治療もむなしく結婚のわずか10ヵ月後、自殺した。変わり果てた巴を最初に発見したのは、夫である剣心だった。
 おそらく剣心の存在は関係なく、遅かれ早かれ巴は破綻していただろう。しかし剣心は縁の思惑通りその責任の全てを背負い込んだ。
 そして縁は、傷ついた剣心の側にいた。全ての事情を知る縁は、今や剣心にとって最も信頼できる存在に変化していた。
 その後剣心は辛い場所になってしまったフランスでの活動を全て停止し、日本に帰国した。しかし帰国後も縁は誰よりも近しい存在として剣心を支え続けた。
 大学を卒業した縁は、以前から所持していた株のいくつかを処分してそれを出資金に会社を興した。
 縁がサービス業を仕事に選んだ時、周囲は驚いた。既に縁は株の世界で有名だったし、大学では法律を勉強していたからだ。
 本当の理由はただ、剣心だった。
 そしていずれ剣心を手に入れたら自分が彼のマネジメントをし、共同経営者として迎えるつもりだった。そして剣心の側にいるために東京に支社を立ち上げ、ヨーロッパと日本を往復する生活を続けた。
 縁のやり方は周到だった。自分を責める剣心に、決して許しの言葉を与えなかった。ただ優しく穏やかになだめ、安心感を与えた。心に負った傷を癒さないままただ覆い隠し、時折引っ掻いては思い出させた。もともと他人との距離を保ちがちだった剣心を孤独にさせ、自分に依存するよう仕向けた。
 長い時間をかけて綿密に詰め続けた楽しいチェスは、そろそろチェックの時期を迎えていた。

 そこへ出てきたのがこのお邪魔虫だ、と縁は目の前で長い足を椅子に投げ出し、眉間にしわを寄せて話を聞いている男を見た。もちろん左之助には縁の内心は伏せ、ショックを受けるであろう部分を特に選んで話してある。
 そろそろ剣心をフランスへ戻そうと画策していたせいで少し側を離れていたら、バイトのひとりも雇おうとしなかった剣心が何故かあっさりこの男を店へ入れていた。
 しかも体調を悪くしたら、真っ先に連絡してくるべきはこの自分ではないのか。いや、おそらく自分だったはずだ、少なくとも半年前までは。
 この男が剣心に対して特別な感情を抱いている事はすぐにわかった。だが剣心がこんなガキを相手にするわけがないとも高を括っていたのだが。
 恐らく今はこの男のひとり相撲だ。しかし、これからはわからない。
 取るに足らないガキだと思う。俺が作りあげた剣心のうつくしい傷に触れる資格など持ち合わせてはいない。粗野で頭も悪そうなこの男には、回りくどい方法は向かないだろう。
 面倒になる前に叩き潰すか。
「おまえは剣心と話していて、時々違和感を感じることがあるだろう」
「違和感?」
「ああ。たとえば、普通に話してたのに突然黙り込んだり、話題を逸らしたりしないか?」
「・・・・・・。」
 確かにある。それは左之助が剣心に壁を作られていると感じる大きな原因のひとつだった。
「それはな。おまえがあいつの地雷を踏んでるからだよ」
「地雷?」
「お前が話してることが、あいつの思い出したくない事を思い出させてるってことさ。つまりおまえはあいつを知らない。知らないことであいつを傷つける。でもおまえは傷つけてることさえ知らない」
 左之助の顔が強張るのを見て、縁は唇の端をあげた。そう仕組んだのはこの俺なんだよ、小僧。
「つまりおまえはあいつから信用されてないってことさ。おまえはあいつの心の中には入れてもらえない。永久にな。おまえでは、あいつには役不足だ」
 左之助の強く握った拳が震えている。
「俺ならあいつを傷つけない。俺はあいつを守ってやれる。過去からも、これから起こる事からもな。なりにのぼせてるんだろうが、ここから先は子供の出る幕じゃない。これ以上あいつを傷つける前に失せろ。」
 左之助は顔色を変えて今にも縁に殴りかからんばかりの勢いだったが、隣室で眠る病人を気遣ってか必死で拳を押さえた。そして射殺しそうな勢いで縁を睨むと、家を飛び出していった。
 この時縁は、自分が詰めを焦りつつあるのにさえ気づかなかった。
 そしてチェスのチェック(大手)には相手の反撃もあるのだという事にも。

 剣心は、あまい香りにうっすらと目を開いた。
 目の前には、宝石のように輝くいちご。そして心配そうな表情で自分を見つめる、黒い瞳。
 額に手をあてる左之助に、剣心はそっと微笑んだ。
「ああ、よかった」
「・・・なにが?」
「夢かと思った・・・」
 かすれた声でそうささやく。
 その瞬間、それまでまっすぐに剣心を見ていた意思的な目がすがめられ、男前の顔がくしゃくしゃにゆがんだ。
「・・・んな訳、ねぇだろっ・・・」
 そのまま、横になっている剣心を強く抱きしめる。
「あ・・・」
 ぼろぼろと真っ赤に輝くいちごが剣心の髪や身体の上をこぼれ落ちていく。
「どうした?さの」
 強く抱く腕が震えているのに気づいて、剣心は左之助の頭を抱きしめた。
「・・・ちゃんとここにいるだろ、俺が」
「・・・うん。そうだな。そうだった」
 剣心は左之助の頬を両手で包む。
「おや、どうしたんだろう。さのが泣いてるように見えるよ」
 左之助の頬を濡らすしずくを指で受け止めた。
「泣いてなんて、ねぇよっ」
「そうだな。でも・・・」
 左之助は乱暴に顔を腕で拭うと、剣心の両手をふとんの中に押し込めた。
「いいから、また寝ろ」
「うん・・・」
 左之助の指を握りながら、こどものように素直に剣心はうなずく。
「さの、」
「ん?」
「ありがとう・・・」
 また吸い込まれるように眠りに落ちながら、剣心はかすかにつぶやいた。
「・・・・っ」
 左之助はふとんを強く握ったこぶしを震わせた。
 縁から聞かされた話がまだ頭の中でぐるぐると回って、胸がぎりぎりと痛んだ。自分は一体剣心の側にいて、何ができるのだろうか。
 しかし絶望にかられながら左之助が今できることといえば、こぼれてしまったいちごの実を拾い集めることしかないのだった。

 数日後、剣心はすっかり快復しまた厨房に立てるようになった。
 あの日、左之助が剣心を抱きしめて泣いた事を、剣心は忘れてしまっているようだった。左之助自身、あの日の出来事は忘れてしまいたかったが、縁の言葉が決して心から離れない。そして左之助自身に鬱積していた不安を刺激する。
 時々さみしそうな表情を見せるのも、過去を話してくれないのも、触れられることを恐れることも。
「あ〜、もうすぐクリスマスだってぇのに!」
 クリスマスケーキの予約はもう終わっているし、数もごく少数しか注文を受けていないが恐らく店は忙しいだろう。でも夜はふたりで過ごすはずだ。それから左之助は剣心の手伝いもそこそこに、普段はおざなりにしているバイトに精を出し始めた。

 そして12月も半ばのある日、剣心の携帯に一本の電話が入った。
『身体の具合は、もういいのか』
「縁・・・」
『実は、ケーキをひとつ頼みたいんだ。ブッシュ・ド・ノエルを』
「ああ、いいよ。わかった」
『それともうひとつ。この前の返事が聞きたいんだが』
「え・・・」
 剣心は無意識に胸を押さえた。
『この前俺がした提案の話だよ』
「縁・・・それは・・・」
『できればイブの夜に返事を聞きたい。その日はホテルにいるから、ブッシュ・ド・ノエルを持ってきてくれないか。その時に話そう。いいな』
「・・・わかった」
『じゃ、イブの夜に』
 回線の切れた音を伝える携帯電話を握りしめて、剣心はひとり立ち尽くしていた。





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