胸の振り子
鷹宮 椿 「あー…。」左之助は窓枠に座り、外の景色をぼんやりと見ている。 志々雄との死闘に決着がつき、今はそれぞれが傷ついた身体を癒していた。 久々に味わう、平和な毎日。 右手だけは剣心よりも重傷とお墨付きを貰った左之助だが、もともと頑丈な身体の事、右手以外は早々に完治し、日がな一日寝ているのにも飽きてしまった。 しかし外をうろつこうにも、京都の地理に詳しくない上、剣心が未だ伏せったままでは到底遊ぶ気にもなれない。 それに。 左之助はまた、外の景色を見て溜め息をついた。 前に京都に来たのはそれほど昔の話ではない。 『おにんぎょさんみたいな、それは美(うつつ)い、赤鬼がいはったわ』 あの時の自分はただ、幕末最強と謳われた人斬りの影を追っては、ひとり敵意を燃やしていた。 抜刀斎。 十本刀と戦っていた時は、それほどこの地について考える事はなかった。余裕がなかったのだ。 しかしやっと戦いも終わりを告げ、剣心の命の心配もなくなった今になってやっと、ここが『京都』だという事に思い至った。 京都。 ここは、剣心にとって特別な場所だ。 きっとこんな事がなければ、二度と足を踏み入れるつもりはなかっただろう。 抜刀斎を、知っている町。 江戸暮らしが長い左之助にとっては、酒も料理もぼやけた味で、綺麗に区切られた町並みも、人々の柔らかい話し方さえも腹立たしく感じられた。 それを上品というのよ、と操から言われても、どうにも苛立たしさが募る。 以前来た時にはそんな風に全く思わなかったのだが。 「チッ…。」 これは、嫉妬だ。 思い至って左之助は舌打ちを漏らした。 自分の知らない、十年前の剣心を知っているこの町に、嫉妬しているのだ。 自分でも決して認めたくなかったが、左之助は剣心に骨抜きといってよかった。 十一で筆下ろしを済ませて以降、金に不自由した事はあっても女に不自由した試しはない。辰巳で左之助の名を知らぬものはもぐりとまで言われるほどだ。だから、今までの左之助であれば、京都へ来ておいて粋筋の京女ひとりとも近づきにならないなぞありえない事だった。 しかし、左之助は剣心と出会ってしまった。以来、生まれて初めての感情に翻弄されるまま、今までの自分ではありえないような苦しい思いに悩まされたりもした。この思いは絶対に伝えてはならない、死ぬまで自分の胸深くしまって墓まで持っていくのだと心に決めていたのだ。 しかしふとした時に思いあまって抱き寄せてしまった。次の瞬間激しく後悔し、二度と剣心と会う事はできまいとまで思ったが、剣心は驚くほどあっさりと腕の中に落ちてきた。 有頂天になった左之助だったが、しかし剣心はただ、自分に応じるだけで、彼の方から思いを伝えてくる事はなかった。 自分が彼を強く望むから、人の良さを勘違いしたアイツは俺に応えているだけなのかとか、自分がもう彼に手を伸ばさなければ、そのまま終わってしまうんじゃないかとか、前以上に煩悶は深まったが、彼を抱きしめる事ができる喜びは、何者にも代え難かった。 しかし、左之助には常に予感があった。 それは、剣心はきっといつか、自分から逃げていくだろうという予感。 もし自分の身に危険が迫れば、きっと剣心は命を賭してくれるだろう。自分が彼に対してそうであるように、左之助はそのことを疑わない。しかし、もしずっと側にいてくれと、一生一緒にいてくれと、そう願ったとしたら。 そしてその予感は現実になった。 自分との約束を破り、ひとり死地へと赴いた剣心。 裏切られたと思った。そして、それでも思い切れない自分はつくづく愚かだとも。 でももしまた会った時に、剣心の目が自分を映さなくなっているとしても、追いかける事を止められなかった。 そして死なないで、自分の元へ戻ってきてくれた剣心。 重傷を負い、血の気を無くして横たわる剣心を前に、やはり彼を失うわけにはいかないと、痛感した。 覚悟なら、とっくの昔にもう決めた。 だけどあいつは、俺が何を誓っても、曖昧に笑って誤魔化すだけだ。 「くそっ…」 最近やっと起きあがれるようになった剣心は、右手が思うように動かないくせになにくれとなく世話を焼き、側にいたがる左之助に透き通るような優しい笑顔を見せてくれる。 もともと色白の肌は、ますます透明さを増して、どんどん綺麗になっていくようだ。 そして彼へ向かう気持ちは、とどまるところを知らない。この分では、周りに悟られてしまうのも時間の問題だろう。 しかし剣心は相変わらず曖昧な笑みを浮かべ、何も言わないまま左之助の手を受け入れ続ける。 一度でいいから、惚れている、と言って欲しかった。そんな言葉を欲しがるのは女のようで嫌だったが、何も言わない彼の口から聞きたかった。独りよがりの思いでない事を、証明して欲しかった。 俺がもし、十年早くうまれていれば、言ってくれただろうか。 幕末のお前を知っていれば、言ってくれたのだろうか。 思えば左之助は剣心の事を何も知らなかった。知りたかったけれど、何も教えてくれなかった。その頬の傷の意味さえも。 ただ何も知らない自分が、悔しかった。 「ちょっと、散歩してくらぁ」 左之助は冴に一言挨拶した。 いつまでもくさっていても仕方がない。剣心に何か美味い菓子でも買って喜ばせてやろうと思ったのだ。 「よろしおすけど、もう迷わんといておくれやす」 「う…、どっこも似たような道で、わかりにくいんだよ、ここいらぁ。」 ぶつぶつと冴に言い返し、着流し姿のまま白べこを後にする。しばらくしてから、美味い菓子屋の場所を聞くのを忘れていた事に思い至ったが、適当に歩いていれば見つかるだろう。 ふらふらと歩いていて、小間物屋が目に入った。菓子もいいが、何か形の残るものを剣心に贈りたくなった。自分自身の持ち物をほとんど持たない剣心は、まるで何もかもを無かったことにしてどこかへ行ってしまいそうで、いつも不安にさせられる。だから何か、剣心のものだと言えるものを贈りたくなったのだ。 「いらっしゃいまし。何かお探しどすか?」 「ああ、ちょっとツレになんか見繕ってやろうと思ってよ」 「贈り物どすか。そしたら、簪なんかいかがどす?」 「簪は、しねぇんだ…。」 「そやけど、簪贈るような仲の方なんでっしゃろ?」 「あ、ああ。まあな。」 「ほな、簪の代わりに、なんぞ髪に飾るもんがええんやないでっしゃろか。組紐なんかいかがどす?」 「そうだな。色は…、紺がいいや。あいつの髪の色に映えるだろ」 「あら、ごちそうさん」 柄にもなく少し頬を赤らめながら、紺の紐を買った左之助はまたぶらぶらと京の町を歩きだした。 茶店で一休みしたかったが、いつの間にか人気のない稲荷神社の境内に入り込んでいた。仕方なく手水の湧き水をがぶがぶと飲んで渇きを癒し、しばらく休憩する事にした。ちょうどそこから京都の町が一望できるほど見晴らしもよい。 町並みを眺めていると、話し声が聞こえてきた。 「あ〜ん、どうして僕が殿下の気まぐれに付き合わなきゃいけないんだ〜!ホントは今日74号とデートだったのにーっ」 「うるさいぞ、81号。大体お前、いつから74号とできてるんだ!最近タマネギ同志でくっつくのが流行ってるのか?だいたいがあのロンドンの色魔のせいだ。今度浮気の証拠を掴んでマライヒに売りつけてやる!」 「わーん、バンコラン少佐をいじめちゃいやだー!」 振り返ると、そこにはおかしな二人組が立っていた。 ひとりは子供のようなのだが、白髪に近いプラチナブロンドに変なちょんまげをくっつけている。顔は目があるべき部分に二本の線があるだけ、口はミミズが這ったようで、鼻に至っては見あたらない。まるでつぶれたまんじゅうだ。もう一人は大人だが、眼鏡をかけ、口が菱形で、タマネギのような髪型をしている。二人とも一応キモノを着てはいるが、明らかに日本人ではなかった。 怪しい。見るからに怪しい。 「誰だ、てめぇら」 左之助は遠慮なくじろじろと見て、単刀直入に疑問を口にした。 すると、子供の方の目がキラッと光る。 「誰だというお前は誰だ!」 「……俺は、相楽左之助ってんだが…。」 すると、子供は露骨にがっかりした顔をした。 「あー、こういう場合はですね。」 横から大人の方が口を出した。 「誰だというお前は誰だというお前は誰だ!」 と子供に向かってビシッと指を指して言うと、 「と、こう言わないといけないんですよ。」 「………。」 「…まあ、こういう高等なギャグは昔の人間には通用しないのだ。仕方ない」 と子供は気を取り直して言った。 「それはまあいいとして、相楽左之助とやら。少々尋ねたい事がある。」 「その前に、ホントにてめぇらは何モンなんだ。妙にはぐらかしやがって」 「僕は越後屋波多利郎と言う美少年だ。こいつは丁稚の玉葱だ」 「越後屋…?」 「フォッフォッフォッ、お主もワルよのう、越後屋。」 「………。」 「…全く、ノリの悪い男だな。タマネギだったら打ち首にしてるとこだ」 「…てめぇら、異人か?」 「なっ、何を言う。越後屋だと言ってるだろうが」 「てめぇら、自分が日本人に見えると思ってやがるのか?」 「日本人どころか人間かどうかも怪しいところですよね」 タマネギ頭の男が口を出した。 「…81号。給料50%カットだ。」 「キャーッ!お許しを〜、殿下!」 「…殿下?そういや、さっきもそう呼んでたっけが、もしかして外国のおえらいさんかなんかなのか?」 「ええーい、こうなったら仕方がない。いけ、81号! 「えぇーっ?この人ステキだから、ケガさせたくないのに…」 「いいから行け!国王命令だ!!」 「あーん、それを出されちゃったら僕たちどうしようもない!ごめんなさい、相楽さん!」 タマネギ頭の男が襲いかかってきた。右手以外はほとんど全快している左之助である、準備運動にもならないかと思ったが、ほっそりした体格に似合わずわりとやるのは意外だった。どうやらきちんとした訓練を受けているらしい。 「だが、俺様の相手にゃ十年はえぇぜ!」 素早く相手の後ろへ回ると、腕で首をがっちりと締め付けた。尋常でない力で絞められた81号は落ちる寸前だ。 「ここまでだな、タマネギ頭!さあ、どうする?越後屋、いや国王さんよォ」 「81号を放してやれ!」 「ちゃんと説明するって約束したらな!どうする、部下を見捨てて逃げるか?」 「…わかった。約束する。81号を放してくれ」 「さすがだな、ガキでも立派な王様ってやつか。さあ、約束通り、ホントの事を話せよな」 「僕は、マリネラ国王パタリロ・ド・マリネール8世、こいつは僕を警護するタマネギ部隊のひとり、81号だ。」 「やっぱ王様か!その王様が、何の用があってこんなとこをうろついてるんだ?」 「信じる信じないは勝手だが、僕たちは未来から来たんだ。タイムワープは僕の特技だからな。」 「殿下は最近新撰組にはまっておられるんです。だから、実際に見てきたいとおっしゃって。僕、大学で日本史専攻してたから、案内役に選ばれたんですよ」 「未来…?タイムワープ…?」 突然の展開に頭がついていかない。こいつらは何の話をしてるんだ? 「時間旅行の事ですよ。僕たちは、ずっと未来からやってきたんです」 「しかし、来てみたものの、新撰組なんかいないし、平和そのものじゃないか。今は一体何年なんだ?」 「い、今?今は明治11年だぜ」 「殿下!15年もずれてるじゃないですか!一体どうしたんですか?糖尿病の具合でも悪化しましたか?」 「おかしいなあ、万延元年に行ったつもりだったんだが…」 「まったくもう、しっかりしてください。前みたいに、ロンドンに恐竜を連れてったりしないでくださいよ。」 「まあ、15年前にもう一度タイムワープし直せばいい事だ。そうとわかれば早速行こう。相楽とやら、悪いが僕たちの事は内密にしておいてくれ。こんな事して遊んでるのが1号や長官にばれたら大変だからな」 「ちょっと待て!なんだかよく飲み込めねぇが、おめぇら、幕末へ行くのか?」 「そうだ。沖田総司が本当に美少年だったか、この目で確かめるんだ」 「俺も行く!連れてけ!」 「なんだ、お前も沖田総司が見たいのか?」 「新撰組なんかどうでもいい!連れてってくれるのかくれないのか、はっきりしろい!連れてかねぇとぶっとばすぞ!」 「はっきりしろって、それは脅迫じゃないか」 「あの、僕さっきから気になってたんだけど…。相楽さんって、もしかして赤報隊と関係がある方じゃないですか?」 「知ってるのか!」 「やっぱり。相楽って、珍しい名字ですもんね。…殿下、相楽さんも連れていって差し上げましょうよ。きっと何か事情があるんでしょう?」 そう言ってタマネギは眼鏡を外した。左之助は素顔をみてびっくりした。明らかに異人だったが、大変な美少年だったのだ。 「まあ、タイムパトロールも僕が潰したし、ひとり連れてったくらいで文句言う奴は誰もいないから構わんが…。あまり長居はしないぞ。それでもいいか?」 「ああ!」 「じゃあ、すぐに出発する。僕の身体に掴まれ。驚いて離すんじゃないぞ。途中ではぐれたらどの時代に落ちるかわからんからな。…タイム・ワープ!」 そして左之助とタマネギがパタリロの身体に掴まった途端、三人は不思議な空間へと飛ばされていった。 突然地面に放り出されて左之助は尻餅を打った。 「いってぇ…。ここ、どこだ?」 「今度こそ、間違いなく幕末のはずだ。」 景色はあまり変わりないようだったが、なんとなく今まで居た所とは雰囲気が違う。一言で言えば、空気が張りつめていた。 「僕たちは新撰組の屯所へ向かいますけど、相楽さんはどうします?」 「俺は、人探しすっから。会いたい奴がいるんだ」 「じゃあ、今日の日付が変わる頃にまたここに戻って来てくださいね。遅れないように、お気をつけて。」 「いいか、お前はこの時代の人間じゃないんだ。誰かに未来から来た事を話したり、これから起こる事を教えたりしてはダメだぞ。未来が変わってしまうからな。わかったか?」 「おう」 「じゃあ、今日の夜に」 そして、左之助はひとり剣心を捜す為に、京都の町中へと向かったのだった。 「といっても、一体どこをどう探せばいいんでぇ…」 取りあえず、長州派が集まるような所を探す事にして、聞き込みをしてみたが、探しびとはなかなか見つからない。 今、剣心は14才、裏の人斬りをやっていた頃のはずだ。名前を出しても簡単に見つかるとは思えない。逆に下手をすれば倒幕佐幕双方から目を付けられる可能性もある。事は慎重に運ぶ必要があった。しかも時間はあまりない。左之助は焦っていた。 焦れば焦るほど時間は飛ぶように過ぎていく。 足を棒にして、京中駆けずり回ったが、成果はなかった。 何のあてもなく、たった一人をこの広い京で見つけようというのが土台無理な話ではあるのだ。しかし左之助は諦めなかった。 そろそろ夜も深くなってきた頃。 「ちっくしょう、どこだよ剣心…」 うろうろとあてもなく歩き回るうちに、竹林に入り込んでいた。 「…?」 一瞬、殺気を感じて左之助は走り出す。 この、感じ。 左之助が知っているものとはまるで違うけれど、根っこが一緒だ。 そして左之助は、見た。 ひとりの少年が、5人の侍に囲まれている。子供相手に関わらず、男たちの様子は非常に緊迫していた。 誰も、一言も発しない。ただ、風の揺れる音がざざ、と響くのみだ。 左之助は距離を置いた場所から、息をつめて見つめている。 永遠のように長く思えた、数舜の膠着の後、 「キエエエエエーッ!」 極限の緊張に耐えかねたように、一人の男が声を発した。途端、男たちは一斉に少年に襲いかかった。 一番側にいた男は、少年が刀を抜く前に斬りつけたと感じ、笑みを漏らした。その笑みが唇にのぼった途端、男の腹が裂け、ピンク色のヌメヌメした内臓がどどっと溢れだした。男は笑みを浮かべたまま、自分の腹を見つめている。まるで痛みを感じていないようだ。 その間にも、次の男は首をなくしていた。首は高く飛び、ちょうど折れた竹に刺さった。首は、不思議そうな表情で数回瞬きをした。胴体の方は、一瞬おいて数メートルの高さにも激しく血を噴き出し、しばらく歩いてどっと倒れた。 胴体がまだ歩き回っているうちに、二人の男へ銀色の光が飛ぶ。ズズ、と同時に二人の胸の辺りがずれ、どさっと地面に落ちた。がくっと膝をつき、切り離された胸から、音をたてて血が迸った。 残ったのは一人だけとなった。恐怖に怯えきって、喚きながら闇雲に刀を振り回し突進してきた男の前から、ふっと少年の姿が消えた。 「……!!」 左之助は上を見上げた。 高く飛び上がった緋色と銀色の光は、流れるように一点に降下していく。 ドシュッ、っという鈍い音の後、西瓜が割れるように脳漿と脳味噌が飛び散り、最後の男は脳天をまっぷたつに割られて崩れ落ちた。 あっという間の出来事だった。 少年は振り返ると、最初に斬った男へ向き直った。男は、激しく痙攣しながらほとんど飛び出してしまった内臓を必死で腹へと戻そうとしていた。内臓自体へのダメージが少なく、死ぬまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。少年は無言のまま、男の心臓を指し貫いた。 ぐうっ、と男は呻いて、そのまま動かなくなった。 少年はびゅっ、と刀を振った。血が、半月を描いて飛んでいった。 左之助は、射止められたかのように動けなかった。 身体中が震えていた。 畏怖、そして…。 「おい、そこの男。隠れてないで出てこい。」 少年は、刀を懐紙で拭きながら左之助に声を掛けた。 左之助はやっと我に返り、少年に近づいていった。 辺り一面、吐きそうなほど血の匂いが立ちこめる中で、ふたりは向かい合った。 「…見たな。悪いが、生かしておけん。」 「いいぜ。おめぇに殺されるんなら、本望だ、…剣心。」 その言葉を聞いた途端、少年の表情が変わった。 「どうして、その名を…」 その時、遠くから人の声が響いてきた。こっちへ近づいてくる。 「こっちだ…!」 左之助は少年の手を取ると、来た方向へ走りだした。 「放せっ…」 「いいからついてこいって!」 握った手は、血に濡れてぬるぬるしていた。左之助は、力を込めて手を握った。 「一体何のつもりだ!」 少年を引きずる勢いで走り続け、もとの稲荷神社に戻っていた。 手水の水をごくごくと飲んで渇きを癒していると、とがった声が背中に刺さった。 「そうわめくなって。おめぇも手ぇ洗って、飲めよ」 「その前に答えろ。お前は何者だ。どうしてあそこに居た」 左之助は、袖でぐいっと口を拭い、ニヤリと笑った。 「おめぇに逢う為に決まってるだろ、剣心」 「さっきもそう呼んだな。どうしてその名を知っている!」 「まあそうとんがるなよ。な、剣心。」 「何者だ。名乗らねば、斬る。」 「だから、斬りたきゃ斬りなって。ほらよ」 両手を広げて一歩、剣心に近づく。 少年は、思わず後ずさりながら、不審な相手に殺気を叩き込んだ。 「いいなあ、それ。気持ちいいぜ。久しぶり…、いや、ここまでのは、初めてか」 こんどこそ、少年は驚きをかくせなかった。自分の殺気を叩きつけられてこれほど余裕をみせた相手は、師匠以来初めてだった。 暗闇に沈み、影と瞳の光ばかりの相手に微かな恐れを感じる。 「どうした、殺らねえのか?おめぇに斬られりゃ、極楽だぜ」 また一歩、少年に近づく。 「ちっちぇえなあ…。まあ、もともとちっちぇえけどよ。」 「…貴様…、本当に、何者…」 「俺は…、そうだなあ、おめぇの左側、かな」 そう言って、左之助は少年の胸の左側をトン、とつついた。 「まあ、それは俺の最終目的っつうか、希望なんだけどよ。近い内に、必ずそうなってみせるぜ」 左之助はニッと笑ってかがみ込んで、少年の顔を覗き込む。頭に手をやり、クシャクシャとかき回した。 「やっと、逢えた…、剣心…」 左之助は、少年の細い身体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。 「ずっと、探してた…。逢いたかった」 「…貴様、一体どこから来たんだ?」 「ずっと、ずうっと遠くから、な」 少年は、細い手を左之助の胸について押した。 「よせ…。血が、つくぞ」 「構やしねぇさ。」 左之助は暗闇にも浮き上がるような白い手をとり、血で汚れた指を口に含んだ。 「俺はな。」 少年の耳殻に、吹き込むように囁く。 「俺は正直、おめぇが人斬りだろうが、物の怪だろうが構やしねぇんだ。世界中の人間を殺してもな、おめぇさえ生きててくれりゃあ、俺ァいいんだ。」 少年の傷のない頬を両手で包む。口づけるほどの距離で、 「だから、死ぬな。誰を殺しても、おめぇは死ぬなよ。世界にひとりきりだって、おめぇに死んで欲しくねぇ奴がここに居るんだ。」 「…俺は、俺には生きる価値があるのか…?」 「少なくとも俺には、おめぇが必要だ。」 少年は、ふっ、と笑みをもらした。 「おかしな、奴だな。」 次の瞬間、少年は耳をそばだてる。 「誰か…、来る。」 左之助も辺りをうかがった。 「…もう、行かねば。追っ手だとまずい」 「待て!」 左之助は少年を再度胸に強く抱き締めた。 「今度逢う時はよ、…俺を助けてくれ。」 「え…?」 「俺を、助けてくれ。おめぇにしか、できねぇんだ。」 「俺が、貴様を…?」 「ああ。その時、また逢おうな」 そう言って、左之助は少年の微かに開いた唇に口づけた。 「それと、あんまり怪我すんなよ。おめぇは細いし白いから、痛々しいんだよ。」 少年は突然の事に唇を押さえて、顔を真っ赤に染めた。 その初々しい仕草に、胸が締め付けられる。 これから彼を待つ、未来の事など何も知らないけれど。 「…そうだ!これ、やるよ。大事にしろよな。今度逢うまでに、なくしてんなよ」 左之助は少年の手に、強引に千代紙でできた袋を握らせた。 中には、ここへ来る前に買い求めた、紺の組紐。 「じゃあ、元気でな。」 少年はぎこちなく頷くと、二,三歩後ずさり、あっという間に闇に消えていった。 左之助は足音が遠ざかっていくのに耳を澄ましていたが、やがてそれも聞こえなくなった。 「…いっちまったな…」 左之助は夜空を見上げながら、先ほどの口づけの甘さと、胸を締め付ける痛みを噛みしめるのだった。 「いつまで隠れてんだよ。さっさと出てきやがれ」 左之助は生け垣に向かって声を掛けた。 「…いやー、気付いてました?済みません、なんか出て行き辛くて…。」 がさがさと生け垣の裏から、ふたりの人間が出てきた。 「…よかったのか、あれで。」 国王を名乗る子供の方が、珍しく真面目な様子で左之助に問いかける。 どうやら子供は、外見に似合わず成熟した頭脳の持ち主らしい。きっとあのやりとりを見て、事情を察したようだ。 「…ああ。とにかく人斬りやってるアイツに逢いたかったんだがな…。俺にできるのは、あれ位しかなかった」 81号の方が尋ねる。 「あの…、どうして生き延びるってわかってるのに、死ぬな、なんて言われたんですか?」 「…アイツは、自分の命なんて価値がないって思ってるからよ。ちょっとでも、生きてていいって、思って欲しかったんだ。俺が大事に思ってんだからよ、本人に大事にされてねぇんじゃ、甲斐がねぇだろ。」 左之助は拳をぐっと握りしめた。 「なのに…、なのによ。これからのアイツに、俺は何もしてやれねぇんだ…」 「でも、これから起こる全ての出来事を乗り越えて初めて、お前の出会った彼になるんだ。…彼を信じてやれ」 「…そうだな。そうだったな」 「殿下ったら、たまにはいい事言う〜」 「さあ、お前をもとの世界へ戻してやろう。」 「ああ。」 ふと、左之助は振り返り、京都の夜景を眺めた。 「大丈夫、お前の気持ちは通じているさ、きっとな」 左之助はぼんやりと京都の町並みを見下ろしていた。 パタリロと名乗る子供は、最初にタイムワープした直後に戻ったから時差はない、もしいつか日本を出る事があったら、マリネラという国を尋ねるといい、と言った。その旨はご先祖に伝えておこう、と言い残し、タマネギ頭と共に消えていった。 あの暗闇の事だし、些細な出来事としてきっと剣心はすぐ忘れてしまっただろう。 それでも、剣心は約束どおり、死なないで戻ってきてくれた。 「左之」 柔らかい声が、背後から投げかけられる。 気配を感じ、声を掛けられても、左之助には振り返る事ができない。 まだ腕と唇に生々しい彼の気配が残っている。 「左之?」 左之助は意を決して振り返った。 そこには、いつもの透明な笑顔。 少しばかり高くなった身長。低い位置に結んだ赤い髪。そして、左頬には、十字傷。 「どうした?何か拙者の顔に、ついてるでござるか?」 「いや…」 おかしな左之だな、と笑いながら近づいて、側へ寄るなり微かに眉を顰めた。 血の、匂い。 「左之、どこか怪我でも、したのか?」 「いや、…これは、違うんだ。」 「手に血がついてるでござるよ。洗うといい」 手を引いて、手水鉢へと誘う。 「おめぇ、もう出歩いてもいいのかよ」 「ああ。ずっと寝ているのにも飽きたでござるし。少しの散歩くらいは、もう平気でござる」 「てことは、女狐には黙って出てきたな?」 「内緒でござるよ」 指を立てて、片目をつぶってみせる。 「…左之は、ここへはよく来るのか?」 「いや、今日初めてだ。たまたま歩いてたらここに来てたんだよ」 「…そうか…」 「剣心こそ、ここはよく知ってるとこなのか?」 「…まあな。ここからの眺め、綺麗でござろう?」 「…そうだな」 しばらくふたりは無言で、暮れていく町並みを並んで眺めていた。 「あ…」 小さく声があがり、左之助は隣へ目をやった。 剣心は、しきりに髪をパタパタと振っている。 「どした?」 「何やら蜂が…」 左之助も慌てて髪をはたいて、ブンブンと暴れる蜂を追い出してやった。 「ああ、すっかり髪が…」 剣心は溜め息をついて髪をほどいた。ふと、結んでいた紐を取り落とす。 「あ、落ちたぜ…」 左之助が拾い上げた。 すっかり色あせた、紺色の組紐。 かなりくたびれてはいるが、左之助にはその紐に見覚えがあった。 「ああ、ありがとうでござる」 左之助の手から受け取ると、慣れた手つきで結ぶ。 「どうかしたでござるか?左之」 呆けたように自分を見つめる左之助に、剣心は不思議そうに声を掛けた。 「いや、なんでもねぇ。」 空は、鮮やかな夕焼けから夜の気配が濃くなりはじめている。ぽつぽつと街の灯がともり始めていた。 「それにしても、ここの景色は本当に綺麗でござるなあ、左之。」 「ああ。ここは、ずっと変わらねえな。おんなじだ」 「…そうでござるな」 剣心は一瞬左之助の横顔を見つめ、ふっと笑みをもらした。 「…左之」 「ん?」 剣心は、落としに両手を突っ込んだいつものポーズの左之助の首に、腕を回し引き寄せる。つま先だち、一瞬唇を重ねた。 驚いて呆然と立ち尽くす左之助に、 「拙者、約束は守ったでござろ?」 そしてさっさと踵を返すと、左之助を放ったまま、すたすたと歩いて行ってしまう。 左之助はしばらくしてやっと我に返ると、慌てて赤毛のしっぽを追いかけるのだった。 あとにはただ、全てを知っているお稲荷さんが二匹、黙って佇んでいるばかりである。 2003/7/31了
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